交通博物館にロードマンあった

秋葉原にある交通博物館がこの5月で閉館するそうだ。普段は興味がないが、あるものがなくなるというのは、最後を見たくなるものだ。それで行ってみた。交通博物館に行ったのは、何歳の時だっただろう?蒸気機関車というものを見たのはここが初めてだった記憶がある。

ところが、その後北海道で暮らすことになったものだから、蒸気機関車は珍しくもなんともないものになった。朝起きたら、200メーター先にある線路を蒸気機関車が走っていたりした。場合によってはD51の二重連も見たことがあるぞ。

そんなことなら、ここにわざわざ書くこともないのだが、交通博物館にロードマンが展示されていたのだ。ロードマン、40代の人なら知っているだろう。よくマンガに広告が出ていた。そのちょっと前だと、大きなウインカー(単一電池駆動)つき自転車やら、6石AMラジオつき自転車やら、ディスクブレーキ、オイルディスクブレーキという過剰装備の自転車が多かった

。当時の学童学習机みたいなものかな。セミドロップハンドルという、今考えると何とも半端な自転車が多かったのだのだが、当時はそれが普通だったのだ。そんな自転車が、5万くらいしていたから相当高いものだったのだなと今は思う。

ブリジストンロードマンは、私が中学生のころから出始めた。あまり正確なところは覚えていないのだが、3万円代でドロップハンドルだったというのが特徴だったような気がする。ライトやフロント/リヤキャリアはオプションだった。リアキャリアというのは単なる荷台だから通学には必要なものだった。高校に入ると通学ロードマン率はかなり高かった。

こういう自転車に乗っていると、どこか遠くに行ってみたくなる。天才バカボンにも「どこかトーフに行きたいなあ」というフレーズが載っていた頃だ。そこで、友人に黄緑色のロードマンを借り、リアキャリアに固形燃料とポリタンクにご丁寧に水まで入れた荷物をくくりつけ、さらに背中にリュックまで背負って初日に120キロ走ったのが、私の初めてのサイクリングだった。

交通博物館で、その時のことを思い出したのだ。別に感傷にひたっていたわけではないのだ。痛かったことを思い出したのだ。これを見ておくれ。

今のハンドルレバーと全然違うのだ。ゴムがかかっていない、アルミむき出しのところを握って走るのである。バーテープは綿。これを握って(しかも素手だった)120キロ走るとどうなったか。手のひらがテカテカになってしまったのである。ピカピカになったといってもよいかもしれない。

ともかく摩擦で磨かれてしまったのだ。一日目で手のひらは限界状態になってしまった。次の日は、軍手を買ってはいて走っていたのだが、指ぬきのサイクリンググローブなんていうのは、まだ想定外のものだったのである。

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